鳥居龍蔵の世界 Page10



鳥居龍蔵の朝鮮調査
「東京大学総合研究資料館展覧会カタログ・乾板に刻まれた世界、1991」より転載。


末成道男


鳥居の調査については、すでに『写真資料集カタログ』第一部に、台湾、満州、千島、沖縄、西南中国について、それぞれ調査旅程と調査図及び専門的角度からの解説がまとめられている。 しかし、質量とも無視しえない写真が残されている朝鮮がぬけているので、本展示会を機会に追加収録することにした。

鳥居の朝鮮調査は、満州調査の序でに行われた最後の第7回調査を除き、四十代始めから、北朝鮮から南の多島海へと調査地を意識的にずらせながら、毎年3ヶ月からしばしば半年以上をかけ集中的に行われた。この間、私的には母親の死と、公的には恩師であり人類学界のリーダーであった坪井正五郎の急死にあい、人類学教室を引き継ぐという大きな事件を経験している。朝鮮調査は、この池の乗り切った時期に都合8回(予備調査を含む)にわたるにもかかわらず、鳥居には珍しく、第5回を除いて詳しい報告書が残っていない。これは、同じく総督府より1913年(大正2年)から委嘱を受けた関野貞ら歴史学者たちの調査分担に縛られていたこと、およびそれと関わりが有ったのか否か不明だが、総督府学務課での第1回報告書紛失事件とによるものであった。

元来、朝鮮調査は、蒙古満州の調査を始めていた鳥居が出版界の知人の紹介をうけて、寺内総督と会い、嘱託として始めていたものであった。第3回目の時、総督府では関野貞らに、古建築と古墳の調査を依頼し、鳥居は、石器時代遺跡と生体測定に従事する事になった。彼はこの分担領域を大変気にしていたが、これは、すでに満蒙の調査から、有る程度、自分の見通しないしその基礎を持っていて、それが関野たちの定説と抵触する事に気づいていたからであろう。

まず、鳥居は予備調査で定説とは異なり朝鮮に石器の存在する事を確認した。さらに、平壌付近の大同江畔の古墳について、今西龍、関野貞らの高句麗説に対し、鳥居は、盗掘者の所持する遺物、満州での発掘経験、『漢書』、『魏志』等の資料を考慮し、楽浪郡の漠族の墳墓であるとした。鳥居によれば、高句麗説は中国政府に対する政治上のポリシーからも好都合であった。東京での発表に対し、出席者の多数より反駁され、朝鮮研究の権威に対し無礼であると詰責された。『史学雑誌』にも掲載されなかった、と鳥居は述べている。[ただし、実際には鳥居は朝鮮調査を始める前の満州調査で、関野説への反論を『史学雑誌』(1910b『全集』8:603−604)で明確に述べている。]また、その後毎年行われた古墳発掘の仲間に入れず、逆に「鳥居は、樂浪古墳の発掘に関係せず、従って埋葬すら知らない」と嘲笑された(1953170−171)。潔癖な鳥居は、採集品はすべて総督府博物館に納めた。鳥居龍次郎氏を訪問した韓国の学者の話によると、ソウルの博物館に当時の写真乾板が二千点あまり保管されているという。[ちなみに姜仁求『韓国前方後円墳舞妓山長鼓山 測量調査報告書』(精神文化研究所)p.28 によると20、000枚となっている。のベ3年に近いと考えられる鳥居の滞在期間や費用が総督府から出た点からすると、あながち有り得ない数字ではないが、今回の写真の総数が2500枚余であることを考えると、前者の数字の方が現実性があろう。]また、どういう訳か第1回の報告書が学務課で紛失したので、第5回のみ報告書を提出した。朝鮮の石器時代についての見通しを論文に発表しようと思ったが、最終回の調査以後は、「同府の嘱託はとかれ、黒板博士及び東西大学各位の仕事となり、私にはこれに関係させず...その他の人もこれに入れないで、官学学者唯一となったから、私は遂に総結論をもすることができず、そのままになった。」(1953:174)と記している。このように、孤高を貫いた鳥居の対人関係が、調査の進行と報告の作成にまで直接影響を及ぼした点で、他の地域の調査と比べ特徴的である。

写真撮影は、沢俊一氏が助手兼撮影技師として第6回まで同行した。Maedaというサインのある写真が数枚あるが、龍次郎氏には心当たりがないので第6回以前のものであろう。また、鳥居は、遺跡を見つけると常にその周囲の全景を撮るよう務めていた。第7回調査の時、満州・ロシア国境近くで遺跡の全景を収めるため後退して行ったら、境界にさしかかったらしく、いきなり銃声が鳴り、すっ飛んで引き返した事もあったという。

予備調査を入れ8回にわたる調査では、生体計測、石器時代の遺跡、民俗やシャーマニズムが主要テーマであった。これらの成果の一部は、雑誌論文などに発表されているが、詳細な記述は第5回を除き、ついに発表されなかった。風俗に関する記述、写真のうちに、当時の姿をしのばせる貴重なものが断片的ながら触れられているだけに、その資料と克明な日記が生かされなかったのは惜しまれる。

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[鳥居龍蔵の朝鮮調査地図]


■朝鮮調査旅程
1910年(明治43年)−1932年(昭和7年)]

年 月調  査 文 献
1910年(明治43年)夏 41 予備調査   
(東京港)−釜山港(船中米穀王熊本利平と知り合い、途中米作地に数ヶ所寄港)−仁川港。京城(『世界』を発行していた二宮氏の紹介で、寺内総督と会い調査打ち合せ、古蹟調査、石器時代の調査、朝鮮人の生体測定)−釜山−(東京港)   
1911年(明治44年) 42 第一回調査(写真井上達三、助手信州史家黒岩秀次1912,1924
 8/29東京−京城−9/8釜山−9/10成鏡道(僻遠の地であるため古俗残すと珍しく風俗関係にやや詳しい説明)元山−城津(東海岸)−会寧(豆満江畔)−豆満江を渡り満州渾春へ(土城および市街の調査)−豆満江を渡り雄基湾に−1912年3月京城−水原−(東京)石器の存在を確認(八木氏らの朝鮮に石器時代遺跡無しの説訂正)、山城、風俗(髪型、家屋、馬、旅合、食事など)、巫俗、身体測定。   
1912年(明治45年) 43 第二回調査(画家佐藤醇吉、写真澤俊一同行)   
(10月満州旅順、総督福島将軍を訪ね、同官舎に宿泊−汽専−長春−吉林省東=海龍塀で女真文字拓本を取る)−鴨緑江−朝鮮楚山−鴫線江−満州輯安県洞溝(高句麗古墳、好大王の碑、山城)−楚山−京城−(1913年3月宮崎県知事の要請により、帰途古墳調査−1913年4月東京)   
1913年(大正2年) 43 第三回調査(関野貞博士も総督府嘱託として、古建築、古墳の調査を行ったので、専ら石器時代の遺跡と生体測定、傍ら土俗の調査に限定する。写真澤俊一同行)1914a
 慶尚南道、慶尚北道、全羅南遺、全羅北道、多島海、済州島(石器表面採集可能、洛東江の金海貝塚発掘、縄文式無く、弥生式と類似、ドルメンいたるところにあり、女子の髪型、十二支の絵を外に貼る、瓢箪舟、農事祭式としての仮面劇)1/21洛東江−1/25金海(貝塚発掘、身体測定)−成安(第二の日本府の地古墳調査、民俗記述)−2/1鎮海−統営−巨済島−統営−固城−南海島−蟾津江−河東−露梁津−釜山−東莱−密陽−昌寧−3/1大邱−3/4慶州−3/9迎日湾−清河−盈徳−青松−安東−栄州−豊基−醴泉−龍宮−尚州−金泉−億館−星州−高霊−大邸−3/31京城−4/15大邱−4/19慶州(半月城地盤の新羅以前の遺跡を発掘)−4/24迎日湾の浦項−日月池−阿珍浦−利見台−感応専−慶州−蔚山−全羅南道−光州−木浦−5/15(警備船で)梅花島−概子島−5/17済州島(面白い地で、土俗も陸地朝鮮と異なった点がある、一般と海女の身体計測)−6/7木浦−右水営−木浦−6/14珍島−莞島−6/23麗水−6/24巨文島−順天−7/9宝城   
1914年(大正3年) 44 第4回調査(写真澤俊一同行)   
忠清南道−息清北道−中央山脈を横断−江原道(石器時代の遺跡、朝鮮人の生体測定、高麗時代の仏刺の牡や仏像見学。西海岸沖積堆土のため貝塚連続、東海岸直線波荒く石器海中に没す。)   
1915年(大正4年) 45 第5回調査(写真澤俊一同行)   
 黄海道−平安南道(生体測定、石器調査、平壌付近、大同江畔の美林里遺跡は、石器時代と三国時代の中間に漢式土器と金属器を含む、漢代樂浪郡時代と推定)−慶尚南道−慶尚北道−欝陵島(古墳、麻、日本米子との往来、生体測定。黄海道の長山半島の夢金浦は、李朝以前山東省の漢人漁民および仲買人の根拠地として栄えた。)    
1916年(大正5年)47第6回調査(写真澤俊一同行)   
 9月27日−12月24日 平安北道−黄海道−鴨緑江口付近−京畿道−釜山   
1932年(昭和7年)63第7回朝鮮調査    
第7回満州調査(文部省の満州国撮影指導の帰り。スケッチ係として次女緑子、撮影係として次男龍次郎同行)の途中、8月14日−8月25日(義州)−開城(高麗の故址の調査)−京城(藤田亮作の斡旋で京城大学関係者などのティーパーティー)−慶州(新羅遺跡見学)−(奉天)   



■朝鮮関係著書・論文目録

以下の目録は                                によって作成した。

                               
                                     
                                     
                                     
                                     
                                     



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